タイトルの通り、Nikon F6を手放した。
2018年1月に購入して以来、主に子供撮りでその精緻な性能を発揮してくれていたが、使用頻度が激減したため、この度我が家から去ることになった。
もちろん、他に使ってくれる誰かに渡ってほしいという願いはあるが、それよりも…使わない機材、ましてやF6ともあろうものをただ部屋の置物にしている罪悪感のような感覚が大きかった。
ここに至った理由を(未練がましく)書いていきたい…。
①やはり、重かった。
本体、電池抜きで975g。電池を入れ、最軽量級のレンズを装着しても確実に1kgは越えてくる。この1kgという重さはカメラをひょいっと持っていくか、ちょっと迷って置いていくかの分水嶺のような気がする。(大げさ?)小さい軽いは正義とはよく言ったものだが…これでもデジタル時代を戦うフィルム機として、先代F5より大幅に軽量化されてはいたのだが…、要するに私にはその重さに見合う性能を発揮・駆使することができなかったということ。
ではハッセルはどうなのだ…ということになるが、個人的な印象として、ハッセルを持っていくときとは気の持ちようが違うのだ。アイツは…見た目からして重そうだから許せる…フィルムの値段も重量級だし。
しかし、しかしながらこのF6のグリップが「恐らくこの世の多くのカメラの頂点に立つのではないかと思われるほど最高」なので、この最高のグリップを握って構えた瞬間にこいつがそれほどの重量を有していることを忘れさせる。構えて、これまた最高なファインダーを覗いてみると重いだのなんだのという小事は吹き飛んでしまうのだが…うーん、でも…そう、カメラは持ち出してこそなのだ…。特に私のような子供連れには…。
②Leica M9が来た
これは完全に個人的な事情。フィルムとデジタルの違いはあれど、どちらも35mmライカ版つまりフルサイズだ。(??となる表現だが気にしない。)
ハッセルでもF6でもリバーサルで撮るのが好きな私だが、M9で好みの絵が出るので、登場機会が激減していたのだ。気分で使い分ける、なんてできないほどに…
③ネガフィルムに対しての考えの変化
リバーサルが好きだけどお高くてネガで…そして現像してデータ化する…のはいつものカメラのキタムラだ。一昨年の今頃はネガの醸す雰囲気にハマって何本も何本も撮っては「おお、こりゃいいね」と感嘆していた。しかし、自分でデジカメデュープして以来、なんとなく引っかかるものがあった。
それは…「ネガのお店データ化の色は、そのお店の色」ということ。つまり、現像所によってスキャンの際の味付けに大きく幅があるのだ。これはネガを暗室でアナログプリントしてよくわかった。ネガは色の調整ありきなのだ。
ということは、自分の好む色や表現を追い求めるならば、「好みの合う現像所を見つけ出す」か「自分でデュープなりスキャンして調整する」か「暗室アナログプリント」するかということが私の思いつく限りの選択肢。そして、そのどれも時間と手間が多少、いや多分にかかる。それなら、撮って出しも丸出しのリバーサルをハッセルで撮るよ…
なんて考えていると、またF6の出番が減っていったのであった。
④フィルムの値上げ
値は上がれど、生産を継続していることに文化を支える矜持のようなものを感じるくらい、フィルムの立ち位置は危ういように思われる。こんな中でのACROSⅡの発表なんてまるで奇跡のようだ。
しかしながらじわじわ値上げが続き、最近行われた大幅値上げにより、一枚一枚がちょっとドキドキするくらい高価になってきてしまっている。(データ化外注までの費用を含めるとなおさらだ)
財布からフィルム代がポコポコ湧き出さない限り、もはやフィルムを使った撮影はパシャパシャ気軽にできない雰囲気だ。
でも、もともとそんな気軽な雰囲気で撮る気にならないカメラがある。…そう、中判だ。せっかく、そんな貴重なフィルムを使うならば、いっそのこと中判で…と、またF6は最高の空シャッター音を響かせて防湿庫での眠りに就くことになる。書いていて悲しい。
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PC内の写真フォルダには機材名と使用フィルムとその内容をタイトルに付けている。「F6C200マンション内おさんぽ」といった感じだ。デジタルではないので、枚数は大したことない。けれど、それぞれのフォルダ内の写真を眺めていると、不思議とそれを撮った状況がありありと頭に浮かんでくる。あのグリップ、ファインダー、シャッター音、撮影後に巻取りするモーター音まで浮かんでくる。
何事もやってみないと、わからない。
当時、「これが最後のカメラだ!」と豪語しながら購入したニコン最後のフィルムフラグシップ。
手放す前に「もう一度シャッター音を聞きたい」と妻に言わしめたカメラ。
Nikon F6は私に忘れられない経験をさせてくれたと思う。ありがとう。